芭蕉の「恋」と「かるみ」
中村君もひいている高橋睦郎さんの以下の指摘、前から気になっていた。
「季節感を表す詞を季題としたコンセンサスとはどのようなコンセンサスか。万葉時代の相聞が平安貴族社会で特殊化された恋の、色好みの、雅の感覚のコンセンサスだ。つまり神と人との相聞から生まれた季節感を持つ言葉を、人と人との恋が幾代にもわたって磨きあげて、取捨選択して行ったのだ。」(高橋睦郎『私自身のための俳句入門』)
直感的には正しい気がするが、実際の短詩型の現場は、季と恋をどのようにあつかっていたのだろう?と思うわけです。そこで以下、近世俳諧を専門にやっている訳じゃないので、論文にするほど精緻とは行かないが、前に「かるみ」を調べた関係で気になっていたところから当たってみた、芭蕉俳諧に於ける「恋」スタディーズ・・・・・・・・・
君待登吾恋居者我屋戸之簾動之秋風吹(きみまつとあがこいをればわがやどのすだれうごかしあきかぜのふく) 額田王(「万葉集」巻四・相聞・488)
しのぶれど色にいでにけりわが恋は物や思ふと人のとふまで
平兼盛(「拾遺集」恋一・622)
こぬ人をまつほのうらの夕なぎにやくやもしほの身もこがれつつ
藤原定家(「新勅撰集」恋三・849)
恋を読むことは、歌の起源に照らしてもその本領であった。ここにあげた三首は、恋を詠んだ歌の中でも、比較的よく知られているものかと思う。額田王の歌は、素朴な歌風とされる「万葉集」中でも、秋風によって揺れる簾の動きと、恋をしている女性のあわい心の動きがシンクロし、物語性豊かに感じられる。兼盛の歌は、文の語順的には「わが恋はしのぶれど物や思ふと人のとふまで色にいでにけり」だろうが、倒置が効果的で、俳句なら終わってしまう字数、上の句十七音をすべて使って、密かなる「わが恋」の思いが、「色」にでていたのだった、というはっとする気づきを歌っている。そして、下の句十四音で、密かなはずの思いが他者に気付かれ、問いかけを受けたことで、ますます自らの恋の思いの強さを再認識するという、心の内面のドラマが描かれている。恋する心の物語を成立させていると言っていいだろう。それに対して、定家の歌は〈こぬ人を待つじりじりとした思い〉を詠うのに、「万葉集」の本歌取り(笠金村、935)に、二・三・四句の「こがれ」にかかる序詞、「まつ(松・待つ)」の掛詞、「もしほ」と「こがれ」の縁語と、和歌の修辞を多用することで、歌枕「松帆の浦」の景と恋の時空と情の間を行ったり来たりしつつ、流れるように最後の七音「身もこがれつつ」という激しい思いにたどり着く。しかしながら、ここまで技巧を凝らすと、本当に、人間の恋の内実に迫っているのか、読者に疑念が生じるのではないか。少なくとも、兼盛の歌のような、活き活きとした恋する人の思いには遠いと思わざるを得ない。
このように、和歌の世界では多用に詠み込まれている「恋」ではあるが、これを発句(俳句)でやろうとすると、容易ではない。ともに省略の文芸の範疇にはあろうが、和歌(短歌)と発句(俳句)の違いを考えるとき、下の句の七七の十四文字分の差は、やはり大きい。
秋来ぬと妻恋ふ星や鹿の革 芭蕉(「俳諧江戸通り町」)
定家程ではないにせよ、故事をふまえ、七夕(乞巧奠)の伝説の織女牽牛の「星」と、その「星」と「鹿の毛」の縁語関係をかけ、雅と俗をとりあわせた俳諧の機知の働きがこの句の眼目である。技巧的だが、ただそれだけの句で、知に寄り添った句作である。定家と同様に、本当に恋の内実に迫れている(あるいはそれで読者に共感を得る)とは思えない。
芭蕉に限らず、当時の恋の句は、まず式目に乗っ取って恋を表す言葉があれば恋であって、それは本来、発句にせよ付け句にせよ、短歌のほぼ半分という字数の中で、効果的に恋の心を表現する働きを狙う上で定まったものだったとしても、形式化し、恋の内実に真に迫ろうとする営為は、もはやあまりなかったと言っても良いのだろう。芭蕉自身、
恋の事を、先師曰く「昔より二句結ばざれば用ひざるなり。昔の句は、恋の言葉をかねて集め置き、その詞をつづり、句となして、心の誠を思はざるなり。今、思ふ所は、恋別して大切の事なり。なすにやすからず。そのかみ、宗砌・宗祇の頃まで、一句にて止む事例なきにもあらず」(「白冊子」『日本古典文学全集』526頁)
と、このように述べて、おそらくは過去の自分を含め、式目上恋とされる詞で恋の句をつくっていた姿勢を批判し、「心の誠」をもつ恋の句の大切さを説いている。故に式目で二句から五句までとされた恋句を蕉風では巻中一句でも可とするという考えを持つに至っていた。
先師曰く、いにしへは恋の句数定まらず。勅以後、二句以上五句となる。是、礼式の法なり。一句にて捨てざるは、大切の恋句に挨拶なからんはいかがなりとなり。一説に、恋は陰陽和合の句なれば、一句にて捨つべからずともいへり。皆大切に思ふゆゑなり。予が一句にても捨てよといふも、いよいよ大切に思ふゆゑなり。汝等は知るまじ、昔は恋句一句出づれば、相手の作者は恋をしかけられたりと挨拶せり。また、五十韻・百韻といへども、恋句なければ一巻とはいはず、はした物とす。かくばかり大切なるゆゑ、みな恋句になづみ、僅か二句一所に出づれば幸とし、却つて巻中恋句稀なり。また多くは、恋句よりしぶり、吟おもく、一巻不出来になれり。この故に、恋句出でて付けよからん時は、二句か五句もすべし。付けがたからん時は、しひて付けずとも、一句にても捨てよといへり。かくいふも、何とぞ巻面のよく、恋句も度々出でよかしと思ふゆゑなり。勅の上をかくいふは恐れあるに似たれど、それは連歌の事にて、俳諧の上にあらねば背き奉るにもあらず。然れども、我古人の罪人たる事をまぬかれず。ただ後学の作してよからん事を思ひ侍るのみなり(「去来抄」同481~482頁)
この話には、芭蕉の恋句に対する強い思いがよくあらわれていよう。蕉門では恋句を大事にするからこそ、一巻中一句でも良いとしたことに、「我古人の罪人たる事をまぬかれず。ただ後学の作してよからん事を思ひ侍るのみなり」という芭蕉の意識は深くて重い。さらに、
「懐紙に恋なくていかがしく、昔より沙汰し来る。なくてはかなはざる事か。好む心はいかに」といへば、「この事は至つて大切の事なり。懐紙に恋を目立つる事、神代の会合より日本はじまるの例なり。恋なくては詮なき事なり。つつしむべし」とあり。(「白冊子」同535頁)
「季にて恋の句をつつむこと、恋の句にて季の句をつつむこと、昔は嫌へども今はくるしからず」となり。 (「赤冊子」同604頁)
このような話から伝わってくるのは、恋の歌を、式目をかたくなに墨守すれば善とするのではなく、伝統を尊重しつつも、それを多少変えても古からの歌の本義、恋する人の「心の誠」をありのまま描く姿勢に立ち戻ろうとしていた、とするのは言い過ぎであろうか。しかし、これもまた「古人の求たる所をもとめよ」(「許六離別ノ詞」)の心ではないか。
以上のようなことを念頭に置いて、これから、芭蕉における「恋」と「かるみ」の句の関係性を考えようとしている。簡単に芭蕉の「かるみ」を確認しておくと、最も新しい事典の一つでは、以下のように説明されている。
芭蕉が、晩年、特に積極的に唱えた文芸理念。理屈をきらうところから生れた枯淡で印象明瞭な作風。また、そのような作風を生み出す詩境そのものを指す場合もある。(中略)頴原退蔵が「かるみ」を「芭蕉が最後に辿り着いた俳諧の境地と説いた」と説いたのに対して、中村俊定は「風躰即ち姿の問題で、芭蕉晩年の新風調の特質としての表現様相に名づけられたもの」と主張した。以後の「かるみ」論は、「境地」と解するか、「風体」と解するかという大きな問題を抱え込んで今日に到っている。(中略)長年「かるみ」に積極的に取り組んできた富山奏は「芭蕉が発句の詠出法として強調した「かるみ」とは本意として内に深遠な伝統的風雅心を宿しながらも、その表現は素朴に、さりげなく眼前の実景描写のように行う手法であった」と指摘している。(「新版近世文学研究事典」平成十八年 おうふう)
また、蕉門では以下のように語られている。
今思ふ体は浅き砂川を見るごとく句の形、付心ともに軽きなり。其所に至りて意味あり(「別座鋪」序)
かるきといふは、発句も付け句も、求めずして直にみるごときをいふ也。言葉の容易なる、趣向のかるき事をいふにあらず。腸の厚キ所より出て、一句の上に自然ある事をいふ也(許六『俳諧問答』「俳諧自讃之論」)
「境地」か「風体」か、またその両方かという問題はここでは問わない。このように語られる「かるみ」の本意からすれば、「恋」の心に迫るのははたして難儀なものであったのか、ということが本稿の目下の主題である。東明雅氏は『芭蕉の恋句』(昭和54年 岩波新書黄版91)において、「軽み」によって恋句が古典的な物から写実的なものへ変化したことを指摘された上で、芭蕉晩年の恋句の減少について、「『軽み』の句風に対して、恋はその本質が濃厚で執着的なものだけにだんだんなじまなくなって来た点もあろう」(150頁)と述べておられる。たしかに、「恋」とは、当然のことながら心に重苦しさを抱えるもので、例え言葉や趣向の問題ではないにせよ、かるくするという事自体に矛盾があるのではないかと思われる。さらに、かるく付けようにも、恋句のかるさは、容易に嘘っぽさにつながりはしないかとも思う。また、みるごとく表現するのにも、案外に難題ではなかっただろうか。例えば、子規以後、諸々の式目の桎梏からはとっくに解放されたはずの近代以降の恋を詠んだ俳句を幾つか例出すると、
雪女郎おそろし父の恋恐ろし 中村草田男(「火の島」)
恋人よ広野のわれは黒き蠅 津沢マサ子(「橢円の昼」)
恋地獄草矢で胸を狙い打ち 寺山修司(「花粉航海」)
恋ふたつ レモンはうまくきれません 松本恭子(「檸檬の街で」)
雪はげし抱かれて息のつまりしこと 橋本多佳子(初出未確認)
草田男の句、昔話のイメージとしての「雪女郎おそろし」と、オイディプスコンプレックスを前提とした父子の関係をにおわせる「父の恋恐ろし」のとりあわせは、いかにも知的な「童心」を詠んだ、まさに近代の知の所産だろう。マサ子の句は、恋心故に自己を矮小化してしまう、せつない心模様を詠む。修司の句では「恋地獄」というおどろおどろしい内面を抱えながら、「草矢」という子どもの遊びでしかそれを具象化できないと言う意味では、マサ子の句に通じるだろうが、やや言葉遊び優先で真実味に欠けている。恭子の句では、恋は「ふたつ」であって、そこにドラマ性を包含してはいるが、それを「レモン」が抱え込むことで、青春の恋か、また大人の不倫の恋かなどの解釈は読者へ任されている。
これら四句は、もちろん「かるみ」を意識したものではないし、様々な恋の内実に迫ろうとする作家の営為の所産であり、それぞれに味わいがあるけれども、先の東氏の指摘する恋の「濃厚で執着的」な本質を表現してはいるが、額田王や平兼盛の詠う恋に比べ、その率直さのもつ力には欠けているのではないか。一方、最後にあげた多佳子の句は「恋」という言葉は使っていないが、例句の中では最も率直かつ情熱的に恋を詠んだものであろう。そしてこの率直さは、先にあげた額田王や平兼盛の詠う恋心に通じてはいないだろうか。さらに言えば、この率直さのもつ、人の心を動かす力は、「軽み」の心に通じるものは無いのだろうか。もしあるとするならば、先の東氏のような「軽み」と恋句の関係の理解とは異なった結論にいたりうるはずである。
先の引用で許六が「軽み」について述べた「腸の厚キ所より出て、一句の上に自然ある事をいふ也」の「腸の厚キ所」は、連歌論『ささめごと』における「恋の歌は余の二、三首よりも沈思なると、先人もいへり。述懐、恋の句など、ことに胸の底より出づるべき事歟」の「胸の底」と、いかほどの位相差を持つだろうか。許六は『宇陀法師』では、「『春風桃李花開日、秋露梧桐葉落時』と云は恋の詩也。近年俳書とて恋の詞を拵へ置は、其人の胸中せばき事しれたり」と、「白冊子」の芭蕉の言と同様に、句作において恋の詞に頼る姿勢を批判しているが、先の「ささめごと」の引用部の前には、「長恨歌」のまったく同じ一節を引用し、「歌・連歌の恋の句なども、この風体あらまほしく哉。風の歌・比の歌の形なり。」(注1)と言っているのである。恋も軽みも、それを言葉にせずに表現すべきものなのだ。前田愛氏風にいうなら、詩の究極は、言葉になっていないあるものに言葉で「呼びかける」(注2)のであり、両書の引用部の言わんとするところは、これに通底していよう。
芭蕉の恋の句の数値的データについては、ここで一々あげないが、既に様々な試みがあり、概して芭蕉が「かるみ」を自覚し出したころからの芭蕉同座の蕉門の連句における恋句の減少を指摘されている。(注3)
東明雅氏は先の引用書中で、芭蕉の恋句の変遷について、「元禄三年あたりが境目となり、それまでは上品な浪漫的な恋が主流であったのに対して、元禄四年ごろからは下世話の恋が年とともに多くなって行く。このような現象は、芭蕉が唱えた「軽み」の説と無関係ではない。」(『芭蕉の恋句』148頁)と述べておられる。例えば、芭蕉の発句「木のもとに汁も鱠も桜かな」でしられ、かるみの志向された句集とされる『ひさご』(元禄三年)集中でも、芭蕉には
ほそき筋より恋つのりつゝ 曲水
物おもふ身にもの喰へとせつかれて 芭蕉
のような、俳諧の機知の働きである、雅語と俗語を重ねて頭韻を踏んでいる句があるものの、これは特に古典に由来する恋ではなく、世話的な読みの可能な句である。その一方で、
逢ふより顔を見ぬ別して 荷兮
汗の香をかゞえて衣をとり残し 越人
この『源氏物語』「空蝉」からの連想の句のような、いわゆる「俤付」の恋句が多く並んでもいる。そして集中では、おおむね後者が主であり、それは芭蕉も同様であって、『猿蓑』(元禄四年)の恋句でも
隣をかりて車引こむ 凡兆
うき人を枳穀垣よりくゞらせん 芭蕉
のように、あきらかに貴人の恋を思わせる句を詠んでいた。ところが、「かるみ」を代表する句集とされる『炭俵』では、芭蕉の句には、そのような恋句はほぼ見えなくなる。いくつか例をあげると、
a御頭へ菊もらはるゝめいわくさ 野坡
娘を堅う人にあはせぬ 芭蕉
b隣へも知らせず嫁をつれて来て 野坡
屏風の陰にみゆるくはし盆 芭蕉
c?をよい処からもらはるゝ 孤屋
僧都のもとへまづ文をやる 芭蕉
d上をきの干葉刻もうはの空 野坡
馬に出ぬ日は内で恋する 芭蕉
これらのうち、a・b・dの芭蕉の付句は、理屈・知識に走らず、当時の世態風俗見たままを自然に詠んだようにみせていて、「かるみ」にそったものと思われる。対してcは「僧都」の解がポイントとなっており、『新日本古典文学大系』では「前句を宮仕えする姉妹の上と見て」いる「王朝風の俤付」としている。しかし、この『炭俵』においては、その他の芭蕉の句の付け方と比べて、この解はやや異質なものに感じられる。幕府の政策「寺請制度」によって、民衆と寺院との関係がどんどん深くなっていった江戸初期の状況もあわせてみると、ただ「俤付」というより、併せて巷間の新しい風習を詠み込んだとみることは誤りなのだろうか。この点はここではこれ以上探究せず今後調べを進めたいと思う。
さて、a・b・dの芭蕉句について検討したい。aの句は、「むめがゝに」歌仙中の一句。野坡句の主人公を頑固な親父と見て付けている句である。上司に菊は持って行かれたが、一方でかわいい娘は誰にもやらぬとの鼻息の荒さまで感じさせる。同時に、外に閉ざすことが、物語内においては周囲の若者達にとって、そして句を読む者にとっても、深窓の令嬢めくこの年頃の娘への興味を喚起しないではおかないことまで計算されている句であろう。
bの芭蕉句は「むめがゝに」歌仙の挙句である。『三冊子』では「会釈付」(いかにもありそうな事をそのまま手軽に付けた句)の例にあげ、「盆の目に立つ、味はふ事もなくして付けたる句なり。心の付なし新しみあり」という。これも「かるみ」への志向を感じさせるような説明だが、これを受けてのことか、従来は、広く地味で平凡な解釈が行われてきたように思われる。
例えば、大沢裕子氏は、芭蕉の付けた句の「菓子盆」を「場の雰囲気を凝縮した物を出した」とし、「内輪の祝言の雰囲気とその部屋で祝っている幾人かのつつましやかな人達が登場し、恋の匂いやかさが一帯に漲る」と評価し(注4)、東明雅氏は「ごく内々の祝言のこととて表だった賑やかさとか華やかさはないけれども、引き廻した屏風には平素にはない明るさとなまめかしさがただよい、その陰に見える菓子盆にも、つつましい中に一脈の暖かさがあって、両句(引用者注・・・野坡「隣へも~」の句とあわせての意)に通いあっている。よい「うつり」の句というべき」とされる(注5)。そして、白石悌三氏は「地味」と評され、「『屏風の陰』にほのかな艶を匂わせているが恋は薄い」(注6)とされている。
これらに対して、宮脇真彦氏は、祝言の様とする通説を斥け、「つれて来て」の「て」の連接から、「新婚生活の一コマ」と見て、「屏風は枕屏風を連想すべき」で、菓子盆への着眼を、男所帯からの変化の表象として「初々しい新所帯ぶり」を読み、さらに「菓子盆は、屏風の向こう側で甘味をつまんでいたことを生々しく意味し、そのままいちゃつく様まで読者にまざまざと想像させる仕掛けとなっている」と述べている(注7)。
ここで思い出したいのは、先に引用した許六「俳諧自讃之論」の「かるきといふは、発句も付け句も、求めずして直にみるごときをいふ也。言葉の容易なる、趣向のかるき事をいふにあらず。腸の厚キ所より出て、一句の上に自然ある事をいふ也」である。「言葉の容易なる、趣向のかるき事をいふにあらず。」を素直に受け取るならば、宮脇氏を除く、通説の範疇の解は、『三冊子』の「盆の目に立つ、味はふ事もなくして付けたる句なり。」も含めて、芭蕉句「屏風の陰にみゆるくはし盆」の趣向を少し軽く見過ぎてはいないだろうか。言い方が悪いならば、「屏風」にとらわれ、少し真面目に読みすぎてはいないだろうか。一般に容易に想像される、世俗の新婚の夫婦ならでは熱々ぶりを、前句で隣に知らせぬとあるからと言って、屏風で遮断した内で淡々と祝言をあげる様子にするのはどうだろうか。なにより「みる」でなく「みゆる」という主体は、新妻の来た他人の家を好奇心をもって何気なく覗いている輩に違いないのである。
これに対して、「内で恋する」と、直截に性行為が言表されているdの句では、雅な恋の本意を反転した鏡としての、俳諧の世俗の恋の本意、つまり恋とはいちゃつくものである、という様子を端的に表していようが、先の各氏はこれを以下のように解されている。大沢氏「卑俗な具体的な行為を指しているが(中略)素朴な表現と適確さとが卑俗をもって猥褻感をもたらさず、健康な感覚へ転じている」、東氏は「うちに籠って色事にふけっている」と解し、小宮豊隆『芭蕉の研究』の「(馬子と下女が・・・引用者)頻にいちやつき合つてゐる」という鑑賞を引用する。白石氏は「雨に日は家で女を抱くさの意」と解されている。これらd句の解とb句の解を見比べるとき、言葉を言葉のままに解釈しようとする姿勢がうかがえよう。それはもちろん誤りではないけれども、先に述べた許六の、あるいは心敬の、「長恨歌」を引いて言わんとしたこと、すなわち、恋を語らず恋を表現するという、詩の本意、あるべき歌句の姿に対して、それを解釈する方法としては、やはり宮脇氏の指摘されるところに魅力を感じるのである。
思うに、和歌(短歌)は恋の物語を文字で率直に語れもするが、最短の詩型とされる十七音の発句(俳句)には、なかなかやっかいなことである。史的には、連歌の発句という十七音詩型の独立(発句)は、詩として一個で自立することを要求されていながら、同時に単独で物語を語ることをしないものとして世の中に生み出された。これは見方によっては詩型として不完全ともいえるだろう。しかし、次に返ってくる答えがあることを信じて、意図的に断片化した物語の可能性を、次の作者となる読み手に投げ出すということは、それ自体がこの詩型の倫理であり、その倫理の下、投げ出された断片を拾い、平句として繋いで、座に集まった連衆が序破急の物語にしてキャッチボールを展開したのが連歌や俳諧(連句)であっただろう。それ故、どう読むかは多分に受け手に任されているはずであり、その空気感は、座にいてこそ理解される文脈であるはずだろう。芭蕉が、「文台を引下ろせば則反故也」(『三冊子』)と言うのは、その外の者に伝わらないものをふまえての言であることは容易に理解できる。しかし、それでも版にすることを拒絶しなかったからには、座の外の読者に、またそれなりに、投げられた側として、投げた芭蕉に信じられた倫理と、それに基づく読みの模索が期待されているはずであろう。その意味で、芭蕉の連句は時空を越えて常に読者に開かれているのではないだろうか。
一見、恋とかるみは矛盾するように見え、事実かるみ唱導後の芭蕉の恋の句は、統計上は減少する。といってそれが果たして「かるみ」と矛盾するものであったからなのかどうか。ここまで、『炭俵』における芭蕉の付句を中心に検討してみて、答えは否、と言いいたくなる。なぜなら、芭蕉の恋句における「かるみ」は、たしかに理屈でない、当時の世態人情の俗な世界を軽いタッチでさらさらと詠いつつ、その読者に具体的かつ濃厚な恋模様への連想を呼び起こしうるものであったのであり、「かるみ」は、恋になじむとか、なじまないというのとは、全く別の位相にあるものと考えられるからである。ではなぜ減少したのかという疑問に対する答えとしては、芭蕉が何度も強調した恋の句を大事にするがゆえの句作の困難があげられようし、もっというなら芭蕉自身の「老い」についてを詳しく検討する必要があるだろう。それらは今後の課題と考えたい。
(付記)文中の和歌の引用については『国歌大観』(CD-ROM版)を、『七部集』の句の引用については新日本古典文学大系『芭蕉七部集』を、使用した。
(注1)『日本古典文学全集』88頁
(注2)「呼びかける言葉」『前田愛著作集6』(筑摩書房 90年4月)
(注3)東明雅『連句入門』昭和53年6月 中公新書508 59頁
同 『芭蕉の恋句』昭和54年7月 岩波新書黄版91 149頁
中村徳子「芭蕉連句における恋句の変化」(「俳文芸」第18号 昭和56年12月)
東聖子「芭蕉連句の季語体系」(「連歌俳諧研究」第92号 平成9年3月)など
(注4)「芭蕉七部集に於ける恋の句」(「女子大国文」第73号 京都女子大学国文学会1974年6月
(注5) 前掲『芭蕉の恋句』194、195頁
(注6)『芭蕉七部集』新日本古典文学大系 校注
(注7)「芭蕉晩年の恋句」(「国文学解釈と鑑賞」第70巻第8号 2005年8月 至文堂)